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高野悦子 (映画運動家) : ミニ英和和英辞書
高野悦子 (映画運動家)[たかの えつこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [えつ]
 【名詞】 1. self-satisfaction 2. rejoicing
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 
: [うん]
 【名詞】 1. fortune 2. luck 
運動家 : [うんどうか]
 【名詞】 1. activist (in a political movement) 2. crusader (e.g., for women's rights)
: [どう]
 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

高野悦子 (映画運動家) : ウィキペディア日本語版
高野悦子 (映画運動家)[たかの えつこ]

高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。旧満州大石橋 出身。
== 経歴 ==

* 父は旧満州鉄道技師の高野与作。姉・岩波淳子は岩波書店社長・岩波雄二郎の妻〔幻の超特急・亜細亜号「パシナ」 富山治夫ブログ 2009年8月16日付〕。姪の岩波律子は岩波ホール・現支配人。
* 敗戦に伴い、16歳で映画「キュリー夫人」を見て感銘を受け、職業を持って自立する決心をする〔『私のシネマライフ』主婦と生活社 刊、1983〕。
* 日本女子大学で、南博主任教授の下で「マスメディアと映画」の研究テーマで、日本映画の観客の反応と内容分析と映画企業分析を行い、各新聞・雑誌に発表する。1951年卒業後、1953年東宝文芸部に入社し、専用に新設された部署で、各作品ごとの観客のマーケティングリサーチを日本企業で初めて実施する。
* 1958年退社後、監督を目指して、フランスパリ高等映画学院IDHEC)監督科に留学。
* 1962年帰国後は、衣笠貞之助監督助手を経て、テレビドラマ演出を目指し放送作家になり、オリジナル脚本3本と脚色1本を書き、1964年念願のテレビドラマ「巴里に死す」を脚色・演出する。
* 1965年自らの原案「鉄砲物語」の監督脚本での日本・ポルトガル合作映画化を企画し、11カ月間ポルトガル渡航し取材と調整によりシナリオ完成と合作準備を整えるが、帰国後、映画会社に交代させられ、他の企画の日米合作「鉄砲伝来記」で別監督で映画化され、挫折し映画監督の道をあきらめる。脚本著作権で訴訟を提訴し和解し、原作者として名が記される。〔〔『岩波ホールと〈映画の仲間〉』岩波書店 刊、2013〕〔賠償金のすべては、ポルトガル合作関係者に渡す。〕
* 1968年岩波ホール創立と同時に総支配人に就任。
 *「日本ポルトガル協会」創立に参加し、常任理事に就任〔。2006年10月、会長に就任する〔日本ポルトガル協会会長就任にあたって 高野悦子 Internet Archive 2013年9月5日閲覧〕。
* 1974年2月12日、名作映画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を川喜多かしこと主宰する。
* 1980年 - 1997年3月まで東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員を務め、1997年9月 - 2007年に初代名誉館長に就任する〔社団法人 全国日本学士会 職歴「文化庁関係」 2013年4月3日閲覧〕。
* 1982年初の日本・ポルトガル合作映画「恋の浮島」(監督パウロ・ローシャ)でプロデューサーを務める。
* 国際交流基金主催の、東京での世界地域別映画祭の実行委員として、1982年「南アジア映画祭」、1984年「アフリカ映画祭」、1988年「ラテンアメリカ映画祭」開催に尽力し、1990年「東欧映画祭」で実行委員長を務める〔『女性が映画をつくるということ』朝日文庫 2002年〕。
* 1984年東京国立近代美術館フィルムセンターの火災で、「フィルムセンター消失フィルムのための募金」運動を設立して、2700万円を集め焼失300本のうち、フランス名画65本の復元フィルムを購入する〔。
* 1985年から2012年まで東京国際女性映画祭のジェネラルプロデューサーを務める。
* 1989年アンジェイ・ワイダ監督の1987年京都賞受賞の賞金の寄付と提案から始まったポーランドクラクフ日本美術技術センター設立への日本側の5億円寄付運動のため、「クラクフ日本美術技術センター建設募金」を設立し、事務局長に就任して進める〔。1993年10月22日に達成し、1994年11月30日完成する〔。
* 1990年ポルトガルの「日本文化週間」で、山田洋次監督参加のシンポジウムと作品上映企画「シクロヤマダ」を実現する〔。
* 1991年英国ジャパンフェスティバル1991」の実行委員として、無声映画から現代までの「日本映画監督五十選」の3カ月間の企画上映を実現する〔。
 * ダニエル・ミッテラン・フランス大統領夫人(当時)の提案によるフランス・リベルテ基金主催の「自由と人間」国際映画週間に日本側実行委員となり開催する〔。
* 2000年記録映画「伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心」を企画〔『母 老いに負けなかった人生』P.227 岩波現代文庫 2013年1月〕・製作総指揮で完成させる〔。
* 2001年平塚らいてうの記録映画をつくる会」の会員と製作委員と〔山田よし恵「平塚らいてうの映画ができました」(2013年3月29日閲覧) ">「平塚らいてうの記録映画をつくる会」副会長 山田よし恵「平塚らいてうの映画ができました」(2013年3月29日閲覧) 制作プロ「自由工房」解説 同日閲覧〕、製作総指揮で、記録映画「平塚らいてうの生涯-元始女性は太陽であった-」を完成させる〔『母 老いに負けなかった人生』P.243-258 岩波現代文庫 2013年1月〕。
* 2004年文化功労者に認定される。
* 2013年2月9日、大腸がんのために入院先の病院で死去〔高野悦子さん死去 岩波ホール総支配人、名画発掘 日本経済新聞 2013年2月14日閲覧〕。。没後に日本政府より正四位および旭日重光章が追叙追贈された〔官報第6006号 平成25年3月15日付 10頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高野悦子 (映画運動家)」の詳細全文を読む




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